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2006/02/20

 はい、ゆったりと再開です。


 そんな訳で、色々考えたふりをしつつ、レイアウトをtableタグにしてみました。

 テーブルタグの弱点は、テーブル内部の内容をすべてダウンロードしてから一括表示されることです。数年前はそうだったんですが、たぶん現在でもそうですよね。

 そして、当サイトは頁によってはやたらに文章が長い。

 よって、低速回線(ISDNやアナログもそうだし、携帯もそうかな)の場合、表示までやたら時間が掛かってしまいます。高速回線の場合は気にならないと思うのですが………各項目に関しては、低速向けと高速向けを用意しよーか(どうせ容量的にはそんな喰わない)とか考え中ですが、冷静に考えて100頁以上も用意するのは凹むですし………うーん……それはやはり、現実的ではないですね。

 まぁ、頁によっては、そんなに複雑にする気もないのですが………

 今回テーブルタグにした最大の理由は、町で見かけたW-ZEROが中々に格好良く、「うーん、モバイルでも見られる方が面白くてよいなぁ(主に僕にとって)」と思ったことだったりします。アレってOperaのモバイル版とかゆーのなんですよね。

 そんな訳で、互換性を目指してテーブルタグにしましたので、此がsafariで見られないとかなり凹みます(苦笑)
 でも、今回も%で指定してるので、場合によっては有り得そうで怖いなぁ………うーん…………(汗

 正直、テーブルタグにすると、僕の非力PCではタイピング時のレスポンスが悪すぎるので、やはり考え物なのですが………

 まぁ、トップのレイアウトというのは、個別頁を作るにあたっての雛形というか、習作という意味合いなので、更新するのに面倒だったら、トップページだけは軽い物にいずれ変更すると思いますけれども(なので、なんか見えづらいとかそういう話は、トップが変わった時にしてくだされると嬉しいw)。

 各頁は現在でも、やたら長い場合は、テキストファイルで書き上げてコピー&ペーストしてるので、更新の利便性はさほど考えなくてよいし(笑)<それはどうなんだ

 暫くはぼやぼや更新してこうかと思います………出来る限り。

 ただ、びみょーに頭に酸素が行かないというか、鷲巣麻雀半ばって感じに血が足りないのか、どうも頭の廻りが悪いです。なので、今までのようなハイセンスなユーモアは披露出来ないかもしれません。残念ですが。


 そんな訳で、まー、今までと変わらないという意見もありますが、その辺は聞こえないふりをしてこーかと思います。

 ではでは〜

2006/02/21

 最近は、昔読んだ本を結構読みかえしていたりします。

 ぶっちゃけゆ〜と、お金がなくなるとそうするのです(苦笑)
 あと、疲れているときは、あまり重い本は持てなくなるわけで、買い込むのも辛いですしね。なんだかんだいって、僕は、本はAmazonとかよりも本屋で買う方がまだまだ多いので。

 お金がないというのは、なんというか最近は蟲師のDVDやら白川静全集やら、コンスタントに高い本を買っているので、あまり余裕がないという感じです。買ってんじゃねーか!と思われるかもですけど、あの辺のって一冊買うと七千円とかなんですよ! 一冊の金額で単行本が何冊も買えちゃうんですよ! いやでもそれだけ面白いからよいですけど………同じ金額遣っても、手元には十冊ではなく一冊しかないわけで、それをじっくりじっくり読むのです。

 そういえば、蟲師は20話までしかテレビ放送しないってマジですかね………いや、買ってるから別によいっちゃよいけど、あまり良くないです………がっかり。

 加えて、国書刊行会が出した金枝篇の完訳とか買いだしたので、更に金銭難は加速することでしょう………あ、そういえば、ロシアンジャーナルハーペトロジーが中々来ないので、「引き落としはされたようだがいつ来るの?」とメールをしたところ、「二月末に纏めて発送します」との事でありました。僕が注文したのは一月の頭だったんですが、十二月二十八日に丁度発送が終わったところだったらしい。
 どうやら偶数月の月末に纏めて発送する仕組みみたいです。来月頭には来るのかな、楽しみです。

 話を戻しますと、金枝篇の第一巻なのですが、コレが1936年の第三版の訳本で、岩波書店から出ている全五巻では省略されてしまっている部分や註釈まで訳されているとかいう代物だそうです。
 まだ、第一巻と第二巻しか読んでませんが……第三巻も早めに買わなくては………いや、来月になりそうですけどね………

 買う前は何だかんだで迷いましたが、読み終わったら、此で一万円前後は安いな〜、とか思ったですよ。病んでますね、はい。

 しっかし、国書刊行会はどーしょーもない本ばかり出しますね……いや嬉しいですが(笑

 此を読んだら、何となく、遠野物語とか菅江真澄遊覧記とかを再読したくなりました。まぁフレイザーは安楽椅子研究家と揶揄されるぐらいですから、菅江真澄とかとは正反対ですし、収集したデータに対するスタンスも違うのですが、此処ではそういう事は気にしないでください(笑) ただ聯想したってだけですので。

 個人的には、菅江真澄遊覧記はオススメなんですが、遠野物語を知っている人でも「すがえって誰? どんな字書くの?」という方も多いようで………たぶん文章が読みづらいからかな。泉鏡花とかに比べれば読みやすいと思うのですが<比べる対象がそれか

 余談ですが、菅江真澄遊覧記には、一頁にちょろっと書いてあるだけなんですが、雪迎えの記述があったりします。
 二巻目だったかな………まぁ、ホントちょこっとなんですけどね。民俗にはあまり興味がなくて、遊糸関係だけちょっと識りたいかも〜、という場合は、錦三郎氏の飛行蜘蛛が、おそろしい事に去年の七月に復刻されているので、それとか、クモの糸のミステリーの方がオススメです。

 …………それにしても、飛行蜘蛛ですけど、よくこんなの再販したですな………(汗)

 僕はコレが再販されているのを見た時、正しく思わず目を疑いましたね。此の世で一番信用出来ないのは己の脳と正気である、と断言して憚らない僕ですが、今回はそれ以上にコレを復刻させた人の正気を疑いたい………いや、褒めてるんですけどね(笑)

 まぁ、内容的にやたら凝ってるので、楽しんで読めるというものではありませんけども、興味があるなら手に取ってみるのもよいかもしれません。

 僕は、以前これが読みたいなぁと思ったので、丸ノ内出版が72年に出したやつを手に入れたので、もう読んでるのですが………稀覯本って訳でもなかったからそんな高くなかったし。奥付きを見ると、出版当時(72年)の価格は900円だったのですね(どうでもいい知識)。

 僕が買った時は幾らだったかなぁ……一万円は行かなかったと思うけど……。
 日本の古本屋さんで検索すると、現在七千円ぐらいみたいですね。まぁ、興味があるなら随分お買い得だと思うので、復刻版をどうぞ。どんな装丁かは知りませんが、同じ装丁だろうから、正方形装丁でしょうかね。

 僕のように、「いや、明治大正の小説は、仮名遣いとかあるんで、古い版も読まないと良さが」とか曰うオカシイ人でない限りは、古本で買う必要ないでしょう。そもそも別に小説でもないのだし。ってか、此は72年の本だし、言葉遣いはそんなに古くなかったから、内容は同じなんじゃないかな。

 コレ関連で、新しいところでは、蜘蛛の巣と網の不思議がお奨めでしょうか。遊糸とは違いますが、蜘蛛の糸や巣に関して、分かり易く、しかし奥行きが深い一冊に仕上がっています。執筆者が執筆者ですから、そりゃそうか、というところではありますが。

 個人的には生物学的特性や科学分析以上に、歴史的にその生き物がどういう風に捉えられていたかということに興味があったりします。ハンニバルが象を連れてローマに喧嘩を売りに行ったとか、ヤドクガエルと原住民の関係とか、ズグロモリモズと山海経の関係とか、神話の中に出てくるのはどの種であるのかとかです。言うなれば生物史や分類史ではなくて博物史。

 どっかにそういう感じの逸話を纏めた、生物版の金枝篇みたいなのってないかな〜とか考えつつ、本屋を彷徨う今日この頃なのでありましたとか。
 

2006/02/22

 グルテンと澱粉(ポテト)、グルコースをベースにした培地は、ハエの産卵に適していて、加えてウジの成長速度も早いのですが、コストパフォーマンスでコーン培地に劣ります。

 コーンと寒天ベースの培地はコストパフォーマンスはよいのですが、表面が乾燥しやすく、卵が孵化や、孵化直後の蛆が成長するには環境が厳しすぎるのでしょう、孵化率で明かに劣ります。

 特に此が顕著に出てくるのは冬季で、日本の冬は極度に乾燥する上に暖房を遣うと、室内の湿度は一桁になってしまいますからね。
 個人的には、冬が一番、ハエの繁殖には大敵である気がします。我が家の洗い場はお湯が出ない(人間の食器洗い場ではないので………)ので、水が手に冷たいですし。

 湿度と温度が調節出来る、餌を繁殖させる為のボックスを作れば解決されますが、そんなのは大変なのでやりたくありせんよね(僕は少なくともやです)。

 けちくさい僕は、その解決方法として、コーン培地を作り、その上に五ミリほど(全体の表面積全体である必要性はなく、半分ぐらいでよいでしょう)グルテン培地を敷き詰める方法を採っています。

 或いは、カスリショウジョウバエの場合は、2cmほどの厚さにグルテン培地を用意し産卵させ蛆を発生させ、1cmほどまで蛆が喰い進んだところで、全体を三等分か四等分し、別のケースに用意してあったコーン培地へとスプーンで移すってのもアリかと思います。どれぐらいの量の蛆が上陸までにどれぐらい消費するかは経験的に量を把握してください。データは採ってないんで………

 一年以上、この手法を採ってみて、総体的なコストパフォーマンス、季節による波などをざっと見てたのですが(別に厳密にデータを採ってた訳ではなく、あくまで感覚的なのであまり当てにはなりませんが)、結構よい感じなのでお奨めしておきます。

 勿論、その分手間が掛かるのは否めないのでありますが、コーン培地だけより効率がきっとよいと思いますので。

 ただし、これはカスリショウジョウバエの場合であって、キイロショウジョウバエはサイクルが短いので、前者はよいと思いますが、後者の手法には向かないと思います。うーん、出来るか……微妙な気がするんですけど。誰か遣ってみてよいかんじだったら教えてください(笑

 僕は僕で、キイロショウジョウバエの効率化に関してはもう少し別の手法を考案してみるとします………なにも思い付かないかもしれませんが(笑)

 今後は、特に小型種に力を注ぎたいと思っているので、キイロショウジョウバエ養殖の効率化は個人的に不可欠になりそうですしね。

 ………にしても、こういう探求って、トコトン地味ですねぇ(苦笑)
 結果が出たんだか出てないんだかは、感覚的にしか調べてませんから、餌図鑑に書き加えられる程の事でもないし。
 重量とか、厳密にデータとして採ってけば面白いかもですけど………………いや、だって、そんなのめんどうくさいじゃないですか(苦笑)


 そうそう、余談ですが、効率化の為に脱脂綿を入れて上陸蛆を採集する方法は、分厚く培地を入れて沢山産卵させても、培地の上の方に上陸蛆が蛹化して蓋のようになってしまうのを防ぐ事が出来るので、実は、毎日仕込むのではなくて数日おきに仕込むという、つまりサボりも可能になります。
 此を突き詰めれば、一週間に二回か三回ぐらいの仕込みで済むような方法の作業手順、つまり作業を簡略化しつつ得られるハエの数は通常と同じぐらい確保出来るようになると思うのですが、現時点では僕が感覚的経験的に行えているだけで、作業手順の文章化には蓄積が足りないので出来てません。

 ただ、いずれ出来るようになるかも。まぁ、それよりも実践してみたほうがいいと思いますけど(文章で読むと面倒そうでも、実際やってみると大した事はないってのは良くあるのです。特に僕のように説明下手な人間の説明の場合は)。

 脱脂綿で蛹を回収するのは地味な手法ですが、結構応用性には富んでいるなーと思ってます。蛹で一杯になった脱脂綿は取り出して、適度な湿度の環境においておくだけで羽化しますから、つまるところ、ミストがべしゃべしゃと掛かる場所でなければビバリウムの中で羽化するという事なわけで………

 取り敢えず、僕は家を明ける時などはビバリウムの中にこれを放置することでしのいだりすることがあります。無論、それまでに色々実験を繰り返して、ここら辺に設置すれば問題ないとか、把握する必要はありますが。なんか水がかからないようで、かつ湿度の循環は保たれ、またハエが出て行きやすいケースなんかを考案出来れば尚よいのかもしれませんが。瓶や試験管ごと、ビバリウムの中に入れて出掛ける、という人もいるようですし………

 ハエがいつ頃羽化するかは、別に仕込んだ日付や上陸した日付を覚えておかなくても、培地の容器を仕込んだ順に並べておけば、だいたい三日後に羽化するのはこのへん、一週間後はこのへんかな?という感じで、把握出来ますし。

 まぁ、此の様にして、セコイ小技でしょっちゅう倒れるのをカバーしている今日この頃だったりします。しかしま〜、この辺のは、倒れるのをカバーするべく考えたんじゃなくって、いかに毎日楽してサボるか!ということを目的に考えたんですけどね………こういうのも、備えあれば憂いなしって言うのかな(苦笑)

2006/02/25

 暫くは、ヤドクビバリウム……というか、ビバリウムやテラリウム全般に関してつらつら書みようと思います。少なくとも此を書いてる時点では思ってますよ(笑
 クモビバリウムとかも………まぁ、本も読めずに横になっているときにぼやぼや考えてることを纏める感じなので、散漫になると思います。あまり期待せずにどうぞ(笑)

 唐突に始まりますが、ビバリウムってのは、アレ、何年ぐらい保つものなんですかね。というか、何年ぐらい保つことを想定して、皆様作られますか?

 ヤドクビバリウムを一例に出しますが、ビバリウム制作に遣われるヤシパネル……あれは、Vivaria Projectのだと思うのですが、どれぐらい保つのか。

 一説ではヘゴ板などより保つと聞いたのですが、僕の環境では四年ほど経つと、ほぼ形を保っていられない感じになります。今年、幾つか作り替えたので良く分かってるのですが、カエルが登ったぐらいで崩れる訳ではないのですが、指で軽く触れれば崩れるぐらいには劣化しますし、一部は崩落し始めることもあり、おそらく七年すれば壁面の形は保てないかもしれません。吹けば崩れる砂上の楼閣の如しと言いますか。

 同じ環境に入れてあるヘゴ棒は、今の所崩れる様子はないです。素材も、触った感じは堅いままで、別に分解されてる感はありません。
 ……単純にどっちが丈夫かというのを厳密に試験した訳ではないので断言はしかねますが、一応、此処ではヘゴの方が長持ちだとしておきます。

 もっとも、ヤシパネルも大夫進歩してきているでしょうし、現在のは、もっと長持ちするかもしれません。昔のと今のとだと、密度とか感触や質感がかなり違いますので。

 取り敢えず、現在作ってるやつはヘゴ棒を縦に並べて壁面に貼り付けたり、ヘゴ板を張り付けたりしてみようと思っていたりします。
 ヘゴ棒よりもヘゴ板のほうが、おそらく部位として芯の部分かなんか遣ってるのか、密だと思うのですけど、どうなんですかね、そのへん? 長持ち度では、ヘゴ板の方が上そうな気がしないでもないです。

 ただ、苔を活着させるので、保湿性が欲しいわけで………どっちがよいか、悩むところですね。

 一番理想的なのは、軽石とかの、軽くて吸水性があり、あまりpHが寄らないような石材なんですけどね。
 何しろ石ですから、溶けないかぎりは十年でも二十年でも保ってくれる。とはいえ、これは中々手に入らなくて……難しいのですが。

 コルクは耐久性は高いのですが、加工に難があります。蒸れるような場所はカビの温床に成りやすく、カビはカエルの大敵ですから、よく洗ったり茹でたりって作業とか、加工作業には気を遣いますね。

 樹脂なんかも耐久性はあるのかもしれませんが、個人的嗜好で、擬岩の類としては遣わないので割愛します。

 ピートブロック………あれは、おそらくアイルランドなどで産出する泥炭でしょう。(ってか世界的に色々なところで産出します、インドネシアとかの島には、泥炭層が沢山ありますし。同じようなものかまでは分かりませんが)。かなり堅いのですが、風雨にさらすような環境だと崩れてきてしまい、二年ぐらいで歪みや亀裂が生じます。おそらく、もとの形を維持出来るのは、推測ですが四年か五年ていどでしょう。小さく分かれても、ブロックとしては使えますが。


 こうして見ると、五年程度のものと、十年以上もつものと、色々ですね。勿論、此処で言う五年はヤドクガエルのような環境であって、砂漠系の環境なら全く別になります。摩耗は殆ど気にしなくていいぐらいになるでしょう。

 もし五年以下で作り替える事を想定してるなら、正直、何使ってもよいと思います。と、言うか、五年とかあんまり考えませんよね〜………作る時に、五年後も遣ってることを想定してビバリウムを作ろうなんて、僕は少なくとも考えた事はない気がします。

 でも、もし五年以上の年月使おうと考えてるなら、中に入れるものを考えて計画立てた方がいいかもしれませんね。

 困るのは、どのような素材ならば長持ちし、どのような素材だと長く保たないか、ということが、今一つわからんってところでしょうか………

 なんとなくビバリウムって、勢いで作ってしまいたくなるのですが、僕の場合は、ビバリウム一つ制作するのが一大作業であるのと、一年二年で組み替えたりせずに、五年か十年は使えるようであって欲しいなぁと考えて計画ねるので、優柔不断な僕は中々設計段階から先に進みません………

 今回も、作り替えようと思ってるのですが、上のようなことを考えて、どういう素材で行くか考えたところで止まっている訳ですな。


 ………ってか、十年とかになると、水槽のシリコンの寿命が問題になってきそうだ(苦笑)

 ふむ、でも、我々の使っている水槽は――おそらく、十年は保つと思いますが………少なくとも、僕は二十年ほど前に買って貰った水槽をまだ遣ってます。補修はしたのもあるししてないのもありますし……

 一口に十年といいますが、さて、十年は、長いのか、それとも短いのか………むずかしいところですね。


 微妙に明日に続きます〜
 ではでは。

2006/02/26

 ウナギとオレンジジュースの組み合わせは極悪だということを知りました。

 ………いや〜、よくウナギと梅干しはよくない、と言いますよね。梅干しは試した事はないのですが、経験上、ウナギを食べた後にかき氷を食べた時にはものすごい気分になったものですが、今回のはそれに次ぐ凶悪さでした。吐かないので苦しみは続くし………いや勿体ないじゃないですか?

 僕の聞いたところでは、天麩羅とかき氷もダメだと聞きます。でも、世の中には氷の天麩羅なんて意味不明なものあると聞き及びます。アレは食べ合わせとして平気なのでしょうか……

 ちなみに食べて暫くして気分が悪くなったのですが、皆目原因が思い当たらず、気分が悪くて行きつけの喫茶店で伏せていたところ、やたら心配してきたので、伏せながら記憶を探り、一日に漫画なら二十冊ぐらいは読破出来る叡智を以て導きだした答えがウナギとオレンジジュースの組み合わせは危険だ、というものでありました。
 今回得た偉大な知見を告げ「非常に危険な組み合わせだから気をつけるように」と注意喚起したところ、「わたしは危険なのは、食べる時点で気付かなかったあなたの頭の方じゃないかと思う」等と意味不明なことを言われました。

 そんな感じで倒れている今日この頃です。これが総て事実なのが人生の不思議なところでありますね?

 さて、全然繋がらないパズルのピースを瞬間接着剤で強制固定するが如く昨日の続きですが。

 世間的には、だいたい人間の寿命は八十年ぐらいですが、僕は男なので七十年ぐらいですか。まぁ深くはつっこまないように? まぁ、日本は現在長寿の国なのでこれぐらいだってだけですけどね。

 そう考えると、十年保つビバリウム作れば十分っちゃ十分なのかもしれません。

 …………ところで、昨日なんとなく書きましたが、十年物のビバリウムって、どんなビバリウムなんですかね。想像つきます?

 というか、”どういうの”だと、”十年物のビバリウム”になるのでしょうか。ああ、ところでテラリウムも含めたいので、今後はテラリウムで統一しますけど、まぁ深く考えないでください。

 はい、例によって理屈を無駄にこねますよ〜。もうね、なんか僕そういう人だと思われてるらしいから開き直ってとことん意味不明なの展開してやるですよ! ええ!

 さて。十年ってーと、結構な年月です。
 でも、同じ何かを育てるのでも十年じゃ全然初期の初期っていう業界もありますよね。長く続いてるものとなると上には上がおりますが、例えば……




 此は、東京の迎賓館で見た盆栽です。迎賓館って東京の何処でしたっけ。赤坂でしたっけ? それは鹿鳴館でしたっけ。うーん?<あんたホントに日本人か?

 そういえば、チェコで本を買い漁った時、何故か盆栽の本が売ってました。向こうでもbonsaiだったのがちょっと驚きでした。ドイツでもbonsaiだったな〜………余談ですが、其の時何故か盆栽本を買ったはよいけどチェコ語が読めずに半分ぐらいで諦めた記憶があります(そもそも盆栽の洋書を読むってのが意味不明だ!)
 チェコはあの当時はEU入ってなかったんで、展示室の説明文がチェコ語だけで、いたく苦労しました………まぁ、それはそれで面白かったですけどね(歴史的経緯で、あの国の一定の年齢層以上の人は英語を介しますし)。
 でもまぁ、観光施設として説明文ぐらいは英語も欲しいなぁとは思いましたが………町中は、まぁ、そのままでよいのでしょう。フランスなんか、駅の標識とか、徹底的にフランス語だけですけど、そういう灰汁の強さは結構好きです。

 まぁこの辺の話は後日にまた延ばすとして、迎賓館の盆栽ですな。別に迎賓館に常にあるものじゃなくて、その時あっただけかもしれませんが。

 何年か前に入れるというので同伴させてもらって中を見てきた時に、一角に並んでいたもので、写真を発掘してきたのですが、解像度が悪いので名札が写ってなくて、どれがどれぐらいの樹齢だったのか分からなくなってしまいました。
 ただ、慥か、六十年〜五百年ぐらいの樹齢のが揃ってた筈です。写真は四枚しか出してませんが(だって容量あるし………)、もっとありました。

 盆栽というのは長く保つものだと漠然と思ってたのですが、やはり百五十年とか二百年とかどまりなイメージがあったのでしょう、五百年とか三百年とかの盆栽で、なんか家康がいじった松で〜とか書いてあったのを見て、驚愕した覚えがあります。たぶん、盆栽好きの人は上の写真を見ただけで、ああ、アレか、と分かるのかもしれませんね。

 ところで、この盆栽、五百年とか三百年といいますが、どの部分が五百年なんでしょうか。

 器が五百年? まぁ、それは有り得るのかもしれません。陶器って長持ちですし。
 土が五百年? うーん、どうなんでしょう。なんか五百年は流石に保ちそうはないし、途中でいろいろ加えたりしそうな気がします。
 ロシアの方で、炎を絶やさず材料を加え続けて煮込み続けて、かれこれ百年以上とかいうシチューがあるそうですが、どうやって煮込んでるんでしょうね〜。やっぱ土鍋でしょうか。
 半分食べて、半分加えて一杯にし、それを半分食べて、また加えて。当然ですが一ヶ月もしたら元のものなんざ残ってません。ですが、それはやっぱり”百年ずっとある”シチューなんだと思います。だから、土が五百年ってのもアリですよね。微妙ってか意味ちょっと分かりませんけど。

 でも、五百年物の器遣ってるから盆栽が五百年なんじゃなくって、やっぱり植わってる植物の樹齢が五百年だから、五百年物の盆栽なんでしょう。

 勿論、器も大切ではありますが喩え鉢が地震で割れても、それは盆栽がダメになった事は意味しないようです。植え替えれば盆栽は盆栽です。元と一寸違いますけど。
 でも、鉢が無事で植物が枯れて、そこに別の植物を植えたら、それは別の盆栽ですよね。

 ――このように、何かを構成する要素を抜き出してそれを吟味するって遣り方は、思考する上で遣りやすいのですが、”隙間”が説明出来ないので、個人的にはあまり好きではなかったりします。
 それは、僕の手は、僕の手であって僕ではないし、僕の目は僕の目という僕の一部であって、僕ではないですが、それらの部分がそろったら、それは僕になる、という概念の遊びに似ているように思えるからもしれません。
 とはいえ、そもそも何かを完全に説明しきろうってことに無理があるので、そこら辺は深く考えないことにします。曖昧模糊な方向で(逃げるとも言います)。

 それに、盆栽の場合だと、核となる部分というのを見付けることは出来そうです。前述したとおり、植物がないと、それは盆栽とは呼べない。植物あってこその盆栽です。
 盆栽が成り立つのはその植物の寿命が長いからです。蘭の盆栽とか有り得ませんな。食虫植物の盆栽とか訳分かりません。

 そうなると草の栽培は一年一年で終わってしまうことになりますが、其処はまぁちょっと裏技的な感じで、一年草などの”草”の場合、その植物の系譜が存続していれば、それは続いていると認識してよいと言えるでしょう。だからまぁ、苔の盆栽というのはあるようですしね。

 此処で話をテラリウムに戻します。盆栽の場合、十年物の盆栽、と言われれば、ああ、植物が樹齢十年なんだな、と分かります。

 では、”十年保ってるテラリウム”というのは、”どんなテラリウム”を言うのでしょうか。

 何故こんなことを考えたかと言うと、”長持ちするテラリウム”を作ろうと思った時に、最初に分からなくなったのが、其処だったからです。どういう状態だったら、長持ちしたことになるのだろうか、と。

 (…………おかしい………なんでこんな話になってんだろ(滝汗) 終わりどころか次回すらまったく予測が付かないけど多分続きます<本気で全然考えてないらしい)

2006/02/27

 さて、ところで、ビバリウムとかテラリウムってありますが、それに於ける盆栽の植物にあたるのって、なんなんでしょう。

 十年保つ、と言いましたが、ビバリウムの中身の植物が十年前と同じであるわけではありませんよね。経験上、土は何遣うかにも寄りますが、三年ぐらいで交換することはあります(ハイドロボール系を遣ってると変えないですむかもしれません)

 植物はどうでしょう。苔は、まぁ世代交代してるけどそれは続いてるから良しとしましょう。ブロメリアも親株は結構早く枯れてしまいますが子株が出てればよいとしましょう。でも、枯れちゃうことだって勿論ありますよね。では、枯れて入れ替えたり、後から入れていった場合はどうなのか。

 十年の間にちびちびと植物を変えたり、土を入れ替えたり(植物は植え戻すとしましょう)、崩れた部分を補修したり、新しく流木入れてみたり、まぁ色々したら、当初と十年後では全然別物になってしまうのは想像に難くありません。ってか変化しなかったら怖いですな。

 そうなった場合、そのビバリウムは十年物のビバリウムといえるのでしょうか………。

 水槽だけ残して中身を根刮ぎ取り出して、新しく作り替えたら、それは水槽は同じでも、別のビバリウムですよね。
 でも、そうやって変えたのと、十年の間に変化したもの、時間の差はありますが中身が別物という意味では殆ど同じであり、少しずつ変えるのと根刮ぎ変えてしまうのの差はあんまり無いような気がします。

 では、水槽が壊れたので、中の植物やレイアウトのマテリアルを別の場所に移植した場合はどうなのか。
 中身は全部同じ、まぁ多少は違いはあるかもしれませんが、設置場所も同じ。規格も同じ。さてそれは、どれぐらい前のと同じ、なんでしょう。

 ………まぁ、こうやって並べてみても、訳分かりませんね。
 何故分からないのか。それはテラリウムには結局のところ、盆栽に於ける植物に当たるような、主体がないからではないでしょうか。

 盆栽は植木鉢の延長線上と考える事が出来る。テラリウムは言うなれば庭の縮小版、日本語で言うならば”箱庭”に近い代物です。だから、盆栽と同様に、何年物、なんて考えが出来る対象じゃない。

 個々のパーツはあり、それらが構成されて総体を為しているけれども、実体はない概念でしかない。
 この言い方は語弊があるかもしれませんが、山は山としてありますが、山を山たらしめている本質というものは無いような感じです。それのミニマム版っていうか。

 植物だけのテラリウムならば別にして、其処に入れている生き物が主体だという考え方もあります。砂漠を模した無機物だけのテラリウムなんかは、変化しませんね。そういう場合は、入れている生き物が主役かもしれません。

 しかし、ヤドクガエルを入れてるテラリウムだとしまして、え〜と、そう、キオビヤドクガエルを入れてるテラリウムがあって、それを途中でキオビじゃなくてアイゾメに入れ替えたとしましょう。そうするとテラリウムに対する認識は別物になるでしょうか。

 盆栽では植物が変わるとそれは別の盆栽ですが、テラリウムに入ってるのがキオビであれアイゾメであれ、ヒルヤモリであれ蛇であれ、テラリウムはテラリウムで、途端に変わってしまう訳ではありません。
 だから、テラリウムの主体は入れている生き物には無いと思えそうです。それは砂漠のテラリウムであろうと同じことでしょう。

 そんな訳で、前回とか前々回とか、十年とか長持ちとか言ってましたが、そもそもテラリウムはそういう風な捉え方が出来る代物ではないので、十年保っているかどうか、などという事は考えるだけ意味がないのかもしれない、という事になってしまいました。

 強いて言えば、或いは此の世に在る須くがそうだとも言えるかもしれませんが、個人に於ける認識として、何年、と言うことが出来るかもしれません。

 (訳の分からない方向へ転がりつつ続く)

2006/02/28

 まぁ、そんな訳で、長く保つか保たないかなんてのは、結局個人の認識に帰着するもので、客観的基準があるものではないんじゃないかな〜とか思った昨日でしたが。

 まぁそもそも、何かを作るに当たって、そもそも、あんまり百年や二百年のスパンなんてものは考えてませんよね。十年だって怪しいものです。
 宮大工とかなら別ですが。ああ、教会とかの設計もそうですかね。


 では、何年保つかなんてのは、瑣事に過ぎないのか。


 僕は万年筆が好きで、実は万年筆を愛用してます。此は祖父が使ってたもので、六十年ぐらい前のやつです。あと、ペン軸なんかも、母が使っていたものなので、これまた四十年ぐらい前の代物です。まぁ、ペン軸を使う場面は少ないのですが(苦笑)

 人間というのは不思議なもので、物質に対しても愛着を持ちます。旅行先で拾ってきたちょっと綺麗な石ころでも、二十年文鎮として使ってたら、中々捨てられなくなりそうです。

 まぁ、そういう情感を全く持たない人がいるのも知っていますが、少なくとも、僕は物に対する愛着というものを持っているようです。
 物と言うと、ちょっと微妙ですか。道具に対する愛着……我が家に対する愛着、或いは自分の部屋に対する愛着。
 道具が道具で無くなっても(壊れても)、成る可くは直したいし、直せないと分かってもちょっと捨てるのが躊躇われるものです。
 電子機器とかには、中々持てませんね、此の手の愛着というのは。スピーカーとかならあるんですが、PCとかには持てないですね。ちょっと不思議です。

 愛着というのは大切にするということでしょう(捻くれちゃってる人の例はこの場合無視しますよ(苦笑))

 僕は少なくともそうです。どうでもいいものは無くしてしまうし、何処にしまったか覚えてないけれど、愛着のあるものはどの辺にしまったのか覚えてるものです。

 何かを好きで居続ける最大の秘訣は、僕は自分の場合を分析してみると、どうも妥協しないことではないかと思っています。
 心に不満を持たないこと。最初はちょっとした不満でしかないような僅かな瑕疵も、一年二年三年と続くと、愛着が湧くだけに不満も深くなってしまいます。かわいさ余って憎さ百倍ってやつでしょうか? ちょっと違うかな。

 此処で言う妥協というのは、自分に対する妥協です。対象が壊れやすいだとか、そういう対象の性質は、変えられない事実なので、それに関してはどうこうしようがありません。
 それに対して自分は好きなのか嫌いなのか、ハッキリさせておいて、嫌いなものを、まぁいいか、みたいな妥協で許容したり好きになったりしようとしない、みたいな意味合いです。自分が作るものであるとか、自分が選ぶものの場合は、妥協しないことが出来ますから。ま、こういうスタンスは、対象が道具というか物体であればこそ、でしょうけど、今回の話の場合は対象が道具なんで、別にいいですよね。

 まぁ、人間心は変わるもので、嫌いなものが気付いたら好きだったり、好きなものが嫌いになることなんか幾らでもありますから、上記みたいなことも単純に言えないのですけども。
 まぁ、なんにしろ、対象がどーも気に食わない、ってぐらいだったらまだよいのですが、妥協した自分に嫌気が差すようになっちゃうと、もうどうしようもないので、僕は最初から妥協しない方がよいような気がしてるという話です。

 まぁ、このへんは結局、自分の性格分析になってしまいそうです。僕の場合は上に書いたような感じってことで。

 そんな訳で、個人的に好まない素材を使ってテラリウムを作ったら(喩えそれが非常に耐久性に優れていてよいとされるものでも)、好きになれずに、すぐに飽きて壊したくなることでしょう。ですが逆に、納得がいく出来栄えのものが出来たなら、出来れば長く使いたいと思うし、五年使ってれば愛着も湧いてくるものでしょう。
 だから、耐久性とかも重要ですが、その素材(材料)が自分の好みかどうかってのも大切な気がします。


 長く使ったから好きなのか、好きだから長く使えたのか。鶏と卵。


 どっちにしろ、拘りを持って作ったものは大事だし、大事ならば、長く保って呉れた方が嬉しい。個人の認識の中だけの事であれば、寧ろそれ故に尚更に。

 と、言うわけで、長持ちするのは大切なんじゃないかなぁとか、やっぱり思い直した今日なのでした〜。
 ただし、長持ちするという事に意味があるのではなく、大事に使う拘りの一品として仕上げるならば、長持ちすることも考慮に入れなくてはならない、という風な意味合いに変わっているのですが。

 (続くんですか?<ぇ)




in 伯林