イチゴヤドクガエル/苺矢毒蛙 (Oophaga pumilio) 
 2009.03、コスタリカ OTSの近くにて

 こんな言い訳を考えてみたシリーズその3

 ここで、「え、その2ってあったっけ?」と不安に思われた方はご心配めさるな。大丈夫、2はありませんでした。
 前回のものに1と書いてなかったとしても、3とナンバーが振られたものがあれば、2があったのでは?と思ってしまうのは自然でありますが、しかし、それは思考にとらわれているとも云えましょう。人はもっと自由であってよいのです。2の次が3じゃなくたっていいじゃないですか。

 たとえば上の写真は何に見えますか? 

 何に見えるか、と言われて人が普通見るものは概念です。そこに「何か」がある。だからそれを見ようとする。脳はその機能として、「何か」を己の知っている何らかの概念に落とし込もうとする。

 木を木ではないものとして見ることは、難しい。ですが不可能でもない。実際、そのようにして世界を見ようとし、それを画布に再現しようとしたのが印象派の始まりであったといいます。光を、ただ光として描いたのであって、それは何かを描いたのではない。そうして描くことで、より本質に迫ろうとしたのか、それとも概念そのものを当初から拒絶しようという試みであったのか、それは分かりかねますが、いずれにせよ、そうした視点が、ひとつの先駆的な試みであったのは確かでしょう。

 脳の機能を使用しないことによって、既存の世界から新しい世界を知覚しようとするように、時間性や空間性を欠落させたところに新しい境地があったように、敢えて概念を喪失することで見えるものがあるかもしれません。

 もっともっと、思考を自由に持つべきなんですよ、人間は。考えてみてください、第一回が第三話で、第二回が第一話というのも、別にアリなんじゃないですか?

 なんかの小説でもあったでしょう、シリーズの第一巻が最終話で、二巻は時系列的には後ろから三番目、というような感じの仕掛けが。…………まぁ、管理人の場合、2を書く予定がないですが。考えてすらいませんが。<それは仕掛けとかじゃなく詐欺です。

 というわけで、上の文章を読んで、「まぁ、一理あるな」と思った人はだまされやすいので気をつけてください。そしてそのまま当サイトのいい加減な文章にだまされ続けてくださるとうれしいです。でも現実社会では振り込め詐欺に注意してくださいね?
 「あほか」と思ったであろう当サイトの読者のほぼ十割を占めるであろう方々には、管理人はべつに何もゆーことはないです。よはなべてこともなし。

 閑話休題

 なぜ山に登るのですか、という問いに、そこに山があるから、と答えたのが誰だったかは忘れましたが、この質問を見るに、「山には普通は登らない」というのが前提としてあるように思えます。まぁ、どこそこへ行く途中の山を越えるとかじゃなくて(その場合は、どこそこの町に行くのが目的であって、別の手段があれば山は通らない)、別に山頂に何かがあるわけでもない、なんたら氷壁とか、そういうのに挑むわけですから、聞きたくなるのも宜なるかな、というものです。

 でも、そういう、よくわからんことを、やろうとする人がいる、というのが人間のおもしろさだな、と思うのです。

 凄さの尺度というのはいろいろありますが、現代では、すごいことの分かりやすい尺度として、速度が重視されているように感じます。というか、大概のことが、速度の競い合いですよね。

 たとえば、 十桁ぐらいの数字の乗算をぱぱっと暗算できるとか、100メートルを何秒で走れるとか、一瞥しただけで文章を暗記できるとか、六歳までに七つの言語をマスターしたとか、ぱっと分かり易い凄さです。将棋の手を1000手読むぜ!とかもそうですね。

 こんな例でなくとも、普通に、仕事をばりばりこなす、というのは、仕事をする速度が速いから、たくさん仕事をすることができる=すごい、ということを意味しているようです。つまりは生産性です。仕事の正確性が同じならば、全体的なコストが小さくなることを意味しますから、確かに速いことは揺るぎない価値です。コストという観点に於いては。

 確かに速さは、分かりやすい凄さでありますし、そうした才覚を目の当たりにすると瞠目を禁じ得ませんが、ただ、レオンハルト・オイラーが天才と呼ばれるのは、彼が十数桁の暗算を得意としていたからではなく、論理的思考でもって数学の定理を見い出すことができたからでしょう(実際、珠算が得意な人や計算が速い人は他にも沢山いますし、人間は電卓を天才だと思ったりしません)。

 もちろん、算術が得意だったことは、証明を検証するときなどに、便利であっただろうとは想像できますから、意味がないという訳ではありません。
 ですが、大切なことは、その証明をしようと思ったこと、その発想、そして意志にある、ということです。

 ひとたび走り出したならば速度は、走る能力は重要です。しかし、そも走り出すことが出来るか? 走れないとしても、足を踏み出すことができるのか、ということ。発想とは、その走り出す方向を決める自由さであり、意志とは、そちらへ進み続ける動力に他なりません。

 才能も勿論大切でしょう、とくに発想の部分に関しては、これはもう、才能という要素が大きく介在しているでしょう。ですが、才能が自分にあると確信したから足を踏み出すという人は稀ではないでしょうか。所詮人間には、自分のものであれ他人のものであれ、才能があるかどうかなど分かりようがないのですから――世の教師に、大人に出来ることは、ただ生徒が、これから生まれて来る己よりも若き子らが、己より先へ進む存在であると信じることのみです。当人にしてみても、足を踏み出して行かない限りは、才能があるかどうかなどわかりはしないのですから、結局のところ、どこかへ到達するかどうかは、最初を踏み出せる意志の問題になるのです。
 意志があれば何でもかなうなとど言うつもりはありません。世の中はそんなにやさしくはない。けれど、少なくとも、それがなければ始まることすらないのだけは、確かです。

 まぁ、意志といったところで、いろいろなものがありますが、けっこう身近に転がっている些細なものもあります。たとえば、管理人には得意な事がそもそもありませんが、好きなことはけっこう多いです。数学とかは得意ではありませんが好きです。でも、数学が嫌いって人は少なくないようですね。定理とかが覚えるのたいへんだ!とかそういうので。日本人の大半が、一度は三角関数を覚えたのではないかと思われます。僕も覚えました。

 覚えた人は多いと思いますが、じゃぁ、一時間で覚えた人と、覚えるのに一ヶ月かかった人は、どれぐらい違いがあるでしょうか。なるほど、たしかに相当時間的に差はあります。
 けれども、一時間で覚えた人と、最初に三角関数を考えついた人の間にある差に比べたら、それこそ誤差のようなものではないでしょうか。

 結局のところ、三角関数を三日で理解しようが、三ヶ月かけて理解しようが、縦しんば三年かかったとしても、そんなのは大した差ではないのです。だって、どちらにしろ、理解しているのですから。本質的な意味で差が生ずるとしたら、三ヶ月を掛けることが出来なくて、理解することを自ら諦めてしまった時です。そういう場合はゼロかイチか、という差が生じてしまうかもしれません。しかしまぁ、三角関数ぐらいならば、その差を決めるのは才能ではなく意志の差ではないかと思いますが………いずれにせよ、ヒトの叡知は、知性とは、そんなところに宿るのではない。

 円を思い描き、そこから三角関数を導いたこと、円をそういう風に観察しようと思ったこと、思うという精神性が、知性なのではないでしょうか。

 現代で三角関数が覚えるべきことになっているのは、知性の向かう先は常に既知の場所ではなく未知の場所であり、そこへ到達するために必要な道具であると考えられているからに過ぎない筈です。強いて云うならば、それを覚えるという行為を通して、そういう風に円を観察するということ、それを編み出した思考方法や、そのようにして生きる姿勢を学ぶのが目的だと云えるかもしれません。

 別に三角関数じゃなくて、蝶の名前でも何でもかまいません。どんなものでも同じことです。蝶の名前を覚えるのが生物学なのではなく、どうしてその蝶はそういう形をして、そういう色をして、どういう生態をしているのか、どういう理由で、このような蝶がこの世に生まれたのか、ということを疑問に思って調べていく姿勢が科学ではないでしょうか。

 より論理的な態度が重要視され、分類体系が打ち立てられたのは、そうした諸々から何かを見出すにあたって、道具に精確さが必要だったからであって、論理的であることが、いわんや分類することが、科学なのではありません。まして、知識を覚えることが科学なわけもない。ただ、科学的である為には沢山のことを覚え、正確に分類し、それをする為には諸々の物事(それは思考方法であったり、分類手法であったり、分析技術であったりといった諸々)を、習得する必要があるだけです(そういう意味では、覚える必要がないわけではないですね)。

 論理は道具や手段であって、目的ではないし、科学の本質ではない。より深くより多くより細かくより詳しく、何よりも正しく、物事を識るために必要だったから、論理性が宿ったのです。論理的でないものは科学足りえませんが、論理的であれば科学なわけではない。

 べつに、才能や能力、努力というものを軽んじるわけではありません。何か素晴らしい絵を思い浮かべ、描こうと願っても、技倆が伴わなければカンバスを切り裂くしかないでしょう。有形無形の他者の力を、社会の豊かさを軽んじるわけではありません。顔料がなければ、そもそも絵を描くことすらできはしません。アフガンでラピスラズリを掘る人間がいなければ、ターバンの色は出せなかったでしょう。アンドリュー・ワイルズが不朽の名を数学史に刻んだのは、証明しようと思い立ったからではなく、やはり証明を成したからです(まぁ、これらは、誰もが時間かければできることで無かったのは明らかなので、この場合の例として適切じゃないよーな気もしますが)。

 それらは自明のことではありますが、ただ、そうした成功に必要とされた、技術を身につける為に必要とされた努力、必要な人材を確保する為に払われた労力、確保するのに必要だった資金を稼ぐのに払われた労力、あるいは、それらを出して貰う為に人々の協力を取り付ける手間や背負ったリスク、そういった諸々を当事者に支払わせたものこそは、始まりの意志、希いの深さだということです。

 道がないと思われる場所に道を拓くこと。一見、なぜそんなことを?、なんの意味があって?、と思われるようなことに挑戦すること。
 それは、おそらくは、この地球上にあって、未だ人間しか持ち得ていないもの、あらゆるものが機械に代行してもらえるようになったとしても、決して揺るぎはしない「人間にしかできないこと」です。計算機のほうが人間より計算するのは遥かに速いとしても、何かを計算しようと思い立つ意志がなければ計算機は動きはしないのですから。そしてそれは、たぶん、一握りの誰かしか持ち得ないものではなくて、たぶん、誰もが持っているものだと思うのです。

 管理人は、かつて、思ったのです。よし、これから管理人は更新をしないということに挑戦してみよう、と。

 辞めるだけなら簡単、と思われるかもしれません。ですが、煙草やお酒を断つのに、どれほどの意志が必要か。己が自然と欲するところへ向かう心を、違う方向へ枉げることが容易いならば、世にこれほど、喪失の傷を癒さんと欲する歌があふれるはずがありましょうか。歌は、言葉だけでは届かない何かに届こうとするところより生ずるものです。

 タイピングを始めてしまいそうな右腕を抑え、アイデアが浮かんでもメモしたりメールしたりせず(管理人は、思いついたことをメールにして自分宛に出すことが多いです。真似するのは常人にはお勧めできません。誤って、自分以外の人に送ってしまう危険が潜んでいるからです。既に携帯のアドレスに登録してある人々からダメ人間だと認定されており、既に失うものなど何もない人ならやってもいいでしょう)、意識のコントロールにより、そちらに思考が向くことを抑える。

 自己制御は見えざる戦いです。サイト更新のことを考えそうになると、「サイ・・・・コロステーキでも食べようかな」と、しりとりで「ピーマンっ・・・・の肉詰め!」と、ミスをするりと躱すように、そちらへ向かう思考を受け流す。
 思考する速度とは、神経細胞の発火なれば電光石火、雲耀の間隙すら油断として許されぬ剣戟の応酬にも似た意志と意志の息詰まる攻防、文章にして400字詰め原稿用紙三十枚分にもなるであろう、暗闘苦闘を一年半に渡りくぐり抜け、管理人は一年半の間、サイトをさぼるということを達成したのです・・・・・・

 というわけで、おそらく文章を読んで、こんな嘘八百にすらなっていない意味不明な文字の羅列を平然と並べられる管理人の馬鹿さ加減を直視するのが哀れで居たたまれなくなくなって涙ぐんでいる頃一年以上もさぼ、じゃなかった、ええと、更新をしないことに成功した管理人の意志のすばらしさに、感動のあまり目頭を押さえている頃だと思います。涙でディスプレイがかすんで、この後に文章が続いたとしても読むのは大変だと思いますので、今日はこのへんで。