コスタリカ旅行記 ケツァール編第三回
フィールドスコープの向こうには、輝くような翠色の羽根に彩られた鳥が、あどけない表情で木に止まっていた。体をわずかに震わせると、朝日を受けて彩光が瞬く。このような色彩が存在するという驚きは、あまたの蝶や昆虫のそれと等しく、存在の不思議というよりも、これを人間が認識できるという不思議を感じさせた。
鳥も蝶も、美しいと人が感じるものすべては、少なくとも人に見られることを目的としていないにもかかわらず、それが人の心を打つのは、この地球上の生命にあっては、美しさの基本的概念が共通するものだからなのだろうか。
昆虫のそれが、人間の可視光線領域外を多く利用しているとされるのに比べれば、鳥のそれは人間のそれに近いという。ケツァールという鳥もまた、己が美しくあらんとするところを目指した結果(その対象はもちろん、同種の雌に対するものなのだろうけれど)、この色になったのなら、彼らと人間の精神の間には、少なくとも美しさという概念に於いては通じ合うものがあるのかもしれない、などと思う。
スコープに目をつけていたのは、ものの数秒だ。同行する他の人々にその場を譲り、そっと片膝をつきながらカメラのキャップを外す。望遠レンズは35mm換算で400mm。テレコンバータをつけているから、最大で520mm。ただしこのレンズはAFの合焦速度が150mm(換算300mm)を超えると、ぐっと遅くなると聞いていた。そこで、300mmの距離で狙う。とはいえ、このレンズは旅行直前(それこそ数日前)に購入したもので、練習は皆無だ(ちなみに、旅行代金共々、カード引き落としまでに金策に苦慮することになるのは、また別の話であり、ちなみに毎度の旅行の話でもある)。
と、周囲の気配を感じたのだろう――というか、わやわやと人が木の下にいるのだから、向こうから見えないはずがない――飛翔して、木の隙間へと身を滑り込ませる。カメラを構えた時には、既にもとの場所にはいなかった。
右目はファインダ、左目はそのまま外界を。まぶたを閉じるのではなく、集中する意識の切り替えで対象を補足するのは、何かの小説だか漫画だか本だか(ゴルゴ13だったかもしんない)で読んだ方法の付け焼き刃だ。しかし、望遠レンズの死角に滑り込まれる。追随が追いつかない。一度、二度、シャッタを切る。右目でチェックはしていないので、合焦しているかどうか―――意識を右目に切り替えようとしたとき、樹木の隙間から重力を利用する滑り出しで身を躍らせ、翼を開いて打ち搏くと、飾り尾羽をなびかせた。慌ててカメラを下ろし、去りゆく姿をせめて肉眼で見ようと瞳を巡らせる―ファインダと異なる光量に虹彩が軋む視界の中、鳥は燦めきの残滓を残して認識の外へと飛んでいった。
――――結局、ケツァールを見られたのは、このわずか一分にも満たない時間が最後だった。すべてを併せても一分あったかどうか。日本から十数時間をかけてやってきて、たったそれだけの時間の邂逅に、しかし、不思議と気持ちは満足していた。それは、本や映像の中のものが、自分の世界にダイレクトに接続された感覚がそこには確かにあったからであり、その感覚が想像の領域を超えるものでなかったにせよ、世界がより拡張されたという感触はやはり甘露なものだったからだろう。
飽きるほどではないにしろ、確かに存在する充実感を胸に、管理人はサン・ヘラルド・デ・ドータを後にしたのだった。
おしまい。
………
…………え?
ケツァールの写真ですか?
……………いやいや、ほら、やっぱ実物みないといけないですってヾ(゜□゜;)
ここはですね、みなさん、コスタリカへ是非行かれてみてはいかがでしょーか! 僕なんかの写真とかそんなんで満足しちゃだめですよ! やっぱねー、実物はちゃうわー、って感じこそが旅の醍醐味ですから。
………え? いや、ちがう、見ていないわけじゃないよ!? ホント見たんです。見ました。確かに本物でした。
え、なんですか、西表島で家猫を見た人はみんなイリオモテヤマネコを見たって言うですって? いやあれはイリオモテヤマネコでしたよ! 人里と違ったし耳ちょと丸かったような気がするし、すぐに視界の外に出ちゃったから自信ないけどたぶんそう! …………え、写真? いや、それはないですが………
でもあれですよ、イリオモテヤマネコはちょっと自信ないような気がしなくもないですけど、ケツァールのほうはホントですって! まわりの人もあれはケツァールだってゆってたし、見間違いとか幻覚とか妄想とかじゃないです。まぁ幻覚は実際の感覚と当人は区別できないものを幻覚っていうそうですから、幻覚だったかどうかを僕自身は否定できないですけど、集団幻覚とかじゃなかったはずだし、それにほら、ちゃんと写真に写ってたですから!
…………え、ここまで書いても信じていただけない? っていうか写真を見せろと?
あのねー、もうねー、普段からボケた感じの僕が第一回第二回と、なんかまじめぶった感じの堅い感じを目指してみたなんちゃって紀行文っぽいの書いたのはね、写真を出さずにどーにかこーにか満足していただこうと思ってのことなんです。
文章の力で写真を超えようっていう試みなんです。それを分かっていただきたいのです。文章は時代遅れなんかじゃない。文章には映像では表現できない情感をそこに織り込む試みをすることができるんです。写真を出す、はい、終わりだったら、文章なんか書かなくていーじゃないですか! 最初から写真だして「ケツァール」で終わりですよ。
…………え、文章はどーでもいいからさっさと写真出せ? そもそも文章なんか流し読みで読んでない?
まじですか。そうですか………いや、まぁ、どういう風に見るかもやっぱ自由ですからねぇ………そういうのもアリですよね…………いや、なんとなくそうじゃないかっていう風に実は思ってましたし、さほど驚きませんが………そうなると、やはり写真が見たいと? そうですよねー、文章で満足してくださったら、おしまい、のところでブラウザ閉じてますもんね………やはり見ていないのではないか、という疑念がぬぐえないのでしょうか………?
………いや、ケツァールは写ってたですよ。ホントですよ。撮りましたよ。ええ。いや…………まぁ………しょうがないなぁ………もうどーなっても知らないですよ?
(´ー`)y-~~~
…………いや、だからケツァール編第二回で書いたじゃないですか。
あのねー、ふらっと行ってねー、そんなジャストに素敵な写真とかそんな撮れないの!! (はいここで逆ギレですよ~)みんなねー、長期滞在したりして狙って撮影してがんばってるんですよ!
しかもなんかガイドさんが「ここ数年で一番厳しいかもしれん………」とかそんな事を呟いたよーな時なんですから!
ロクな写真は撮影できませんでしたっていう伏線(言い訳)張りまくってたでしょ! はい、そんなわけで管理人が撮影してきたケツァールの写真はせいぜいこんな出来ですよ! うわぁぁぁん、ちくしょーーー! (T△T)
(オチはとくにない)
以下、オマケ
――――ふと、思い返すに、気に掛かることがある。
管理人がケツァールを見たその場所、人々が集まっていたその場所で、ケツァールが去った後………そこで、管理人は”あの男”に会ったのである………そう、一部の日本人以外には別にさほど知られていないという、現地で今も日本人にツーショットをお願いされて戸惑い気味であるという、セニョール・マリーノに…………
…………いや、しかし、まさか――――? (番組を見ていないと全くついて行けないであろう感じで終わり)