Routebrun Track, Te Wahipounamu – South West New Zealand. 2013

 
 こんな話を聞いたことがあります。
 チェスのトッププレイヤーと、チェスの初心者に、チェスの駒が置かれた盤面の写真を一瞬だけ見せます。
 このとき、盤面の駒の配置がランダムである場合は、トッププレイヤーと初心者の記憶する能力はそんなに変わらないのですが、ゲームとして自然に進行した結果の盤面だと、トッププレイヤーはかなり正確に記憶できるのだそうです。

 これは瞬間記憶能力だとか、チェスプレイヤーの記憶能力が優れているということではなく(もちろん、チェスのトッププレイヤーの中には、記憶能力が優れている人もいるでしょうが)、一般人とチェスプレイヤーは、視ているものが違う、ということを示していると言えます。

 プレイヤーであれば、その盤面を見たときに、何をどのように見るのか、意識無意識はべつにして、見方を知っているということです。

 普通、見えていないものには気付きようがありませんから、人は、自分が見えていないということにすら気付けません。あるとき偶然、見えていなかったということに気付くまでは、誰しもが自分はその場でちゃんとものを見ているつもりなのです。灯台もと暗し、空を見上げれば足下の花など見えない、あるいは、うつむいていては空の虹を見つけることはできないと言われているから知っていても、普通は、自分が空を見ていなかったことすら思いつきません。

 これはきっとあらゆることに言えることで、たとえば、飼育が上手い人は、この、なにかを見るのが上手い人なのでしょう。
 山や森を歩くのにも、これに似たところがある気がします。自分が気にもせず通り過ぎてしまったところで、同行していたひとがふと足を止める。それは必ずしも何かの動物だとか、植物だとか、有形のものではないのですが、その視界を借りてみると、そこにあるものにようやく気付くことができる。

 別に森とかじゃなくても、それこそ町中で写真を撮影してみると、カメラマンが撮影したのとはぜんぜん違う写真しか撮影できないはずです(あなたがカメラマンでないならば)。ラーメンを、美味しそうだなぁという風に見えるように撮影するのは、なかなか難しいことです。

 誰かが撮影した写真をいちど見れば、そうした視点があることに気付けますから、同じような写真を撮影することはできるかもしれませんが、そういう風な視点を見出す歩きかたを身に着けているわけではないので、それ以上のことはできない。同じものの模倣が限界です。たくさんそうした模倣をやって考えているうちに、身につくということはあるとは思いますが、それは研鑽の道ですから易しくはないでしょう。

 自分には見えないものを見える人を観察していて、ちょっと面白いな、と思うのは、そういう人はあまり何かを限定的に見たりしていないようなのです。管理人などは森やらに行くと、生き物とか植物とか、なにかを見ようとしてしまいます。過去にそうした生き物を見つけた経験があるので、それをもとに探そうとしてしまうのですが、なまじこうした知識や経験があると、何かを探そうとするとき、周囲を見るのではなくて、それ以外を見ることを意識的にやめてしまう、ということになりがちで、それ以外の何もかもが見えなくなってしまう。

 何かをぱっと見つける能力はとても大切なもので、身に着ければ無類の力を発揮しますから、そういう見方を身に着けることもとても意味があると思いますが、同時に、過去に経験があると、それに似たパターンばかりを追求してしまって、それ以外のパターンで探せなくなってしまうこともある。膨大なパターンをすべて記憶するというのも一つの手ですが………いろいろな、すごいなぁと思う観察者を見ていると、そういうのとは違う見方があるような気がするのですよね………。

 自分の見つけたいものを見つけつつ、それ以外のものも見られるようになるには、どういう心持ちで歩けばよいのか。
 ここで答えをばきっと出すと格好良かったりするのかもしれませんが、もちろん管理人は方法がよくわからないので、どうやればよいのかなぁと思いつつ、たまに森をふらふらするのでした。